7月下旬の畑作業と夏農業の現実
おはようございます、7月22日の朝の畑からお届けしますね。7月も下旬に入って、畑の様子もだいぶ変わってきました。基本的には草刈りと支柱の誘引作業が中心になるんですが、やっぱり夏の真っ盛りになってくると、**やれることが限られてくる**というのが目に見えて分かりますよね。
ハウスなどの資材をしっかり使えば、もっと色々なことができるんでしょうけど、今のところ真夏は草刈りがメインになりそうです。これも農業を始めて丸々1年経って分かってきたことですね。
収穫の現状と販売
今日の収穫はきゅうり1本とトマト5〜6個でした。火曜日なのでこんなものかなという感じですが、きゅうりが終盤になると一気に肥大化してしまうんですよね。次回は日曜日に来る予定ですが、おそらくまたお化けサイズになってしまうと思います。**きゅうり栽培は販売まで考えると毎日行けないと厳しい**というのが正直なところですね。来年は夏場のきゅうりも売っていきたいと思っています。
販売について言えば、6月の終盤に販売に乗り出して、現在の売上金額が1620円となっています。ただ、その後は販売できていないんですよね。ニンニクとかまだ在庫があるので売ろうと思えば売れるんですが、今年の冬の植え付け分もありますし、自宅でも毎日2〜3かけ使うタイプなので、そう簡単には手放せないなと思っています。しかも安いので、あんまり安売りしたくないというのが本音ですね。
ジャガイモなんかもありますが、これは安いので売るより食べた方が価値が高いなと感じています。以前に比べて頻繁に食べるようになりましたし、自分の収穫物なのでより愛着を持って食べています。**長持ちするのがいいですよね、ジャガイモ、ニンニク、玉ねぎとか**。こんなに長持ちするものだというのも、しっかり調べないと分からなかったので、これもある種のスキルだなと思っています。農業を始めた甲斐があるなと思っていますよ。
販売の方は来年から本気出すみたいな気持ちになっています。今年は試行錯誤の年として、来年に向けてしっかり準備していこうと思いますね。
IT業界での軌跡:代理店からコンテンツメーカーへの転身
さて、今日の雑談は私の履歴書シリーズの続きとして、海外在住時代の話から日本に帰ってきてからの話をしようと思います。現在に繋がりすぎない程度に、コロナ前後ぐらいまでの話をしていきますね。
事業承継の経緯と背景
ベトナム編の最後の方でも話していると思いますが、ある取引先のかなり大きな比率を占める会社の創業者から、前々から冗談半分で「社長変わってくださいよ」とずっと言われていたんですよね。「いやいや何をおっしゃいますか」とか言っていたんですが、その方は僕より5歳上ぐらいで、当時40歳過ぎたぐらい、僕はもうそろそろ10年になるので35を過ぎたぐらいでした。
僕らがやっている事業は**ITという属性とコンテンツという属性を持っている**んですよね。IT領域の中のコンテンツなのか、コンテンツ領域の中のITなのか、どちらを主としているのかというあり方として、どちらでもあり得るんです。
その創業者の方は、どちらかというと**コンテンツサイドからのアプローチ**で、そのコンテンツをアウトプットするフィールドとして、いわゆるモバイルコンテンツ(今はモバイルという言い方はもうほとんどしませんが)の配信という領域で事業を起こされていました。ちょうど10年やってこられていたんですよね。創業が2006年で、まだまだITという領域が爆発期にも来ていない時期でした。ちょっと早めに参入している感じだと思います。
IT業界の世代論と市場環境の変化
一番第一陣は1990年とか2000年、これを第一陣って言っちゃうと怒られる部分もありますが、インターネットビジネスという意味では第一陣が2000年前後に創業して、サイバーエージェントとか楽天とかもその辺じゃないかなと思います。その後に続くウェーブなので第二陣ぐらいなんじゃないでしょうかね、インターネットビジネスという意味では。
そこそこ早めに創業していて成果も出ていました。いわゆる上場を目指したりとか大企業化したりとかは全然できておらず、僕が引き継いだ当時も現在も20名ほどの小さな会社ですけども、そんな会社でした。
僕は逆で、**ITの領域からコンテンツの制作配信というところに進んできたタイプ**だったんですよね。現在もそうという感じですが、そこの違いって結構やっぱり大きくて、その創業者さん曰く、10年もやっているとITの領域って、当時ガラケーのプラットフォームに向けて、システム的にもそうだし技術的にもそうだし、そういう領域で創業していて、10年も経つとスマートフォンが台頭してきて、PCとかレスポンシブとかいう話で、PCもスマホも両方ともカバーしなきゃいけなくて、という感じで**技術領域とかそのマーケットの変遷がものすごく激しい**んですよね。
中小企業としての生き残り戦略
今も激動し続けていますし、なんなら今や僕らのような中小サードパーティーみたいなのも存在できるマーケットがちょっと厳しいみたいなところまでマーケットが遷移してきてしまっています。そうすると、創業者のアプローチ、コンテンツ側からアプローチしてITを活用しているというアプローチですと、**ちょっと中小としてやっていけない感覚**というのがやっぱりあったみたいなんですよね。
僕もそれは全く同感です。実際に僕は10年かけて変革を、この会社を現代のマーケット環境にフィットするように地道に作り変えてきましたけれども、もはや実際我々はコンテンツ屋さんというよりは**ITシステム屋さんに変革しています**。それは僕が引き継いだからそっちの方向に来たし、そっちの方向に向かってきたので、会社組織を維持しながらなんとか生き残れたというところはあるかと思います。
現時点でもコンテンツの制作配信の方面だけにこだわっていたら、多分会社を潰さないまでも3名とか4名とかいうのが限界な気がしますし、3名4名でもちょっと厳しいかもしれないな。コンテンツをやるにしても3、4人食っていくにはもうちょっと高次元な仕事をしつつ受託制作するとか考えないといけなかっただろうなと。**会社の存続自体が危ぶまれるようなマーケットの変遷**ですよね。
キャリア形成の原点:代理店業務への疑問
大学中退からの就職活動
僕がなんでその領域をやっていたのかという流れのところをお話ししておこうと思います。僕は大学を中退して、卒業まで頑張るをやらずに中退を選んだのは、年齢的にそろそろ働いて経験をしていかないとまずいなと思ったからなんですけど、何しろ大学中退なので**雇ってもらえるところがあるだけでありがたい**ということで、最初就職する時に当時はビーイングというリクルートが出している転職雑誌があったんですけど、その転職雑誌で就職するということをしたんですよね。
「未経験歓迎」みたいな「楽しい営業の仕事です」みたいなやつ、「サークル乗りでやってます」みたいなやつ。完全に地雷だし、地雷であろうがとにかく雇ってくれるところを探していった。その就職活動自体は割とすぐ終わりましたね。1ヶ月もかからなかったんじゃないかな。誰でもウェルカムで入れてくれるし、どんどん辞めるっていうタイプの営業会社に入ったわけです。
その会社では楽しかったわけじゃないですけど、やっぱり働いて稼ぐということについての満足感というか、何かをやっている感は得られたし、1年ぐらいはいてそこそこ成績も上げていました。
IT業界への転身のきっかけ
そのあたりで大学の先輩から「営業やってるんだったらうちに来なよ、営業の仕事あるよ」「儲かるよ」って言われたんで、そもそもそのガリガリの営業会社っていうものの社会的意義みたいなのも1年もやっているとはてなって思いながら、大きな疑問を抱えながら仕事をしている状態にはなっていたので、普通に誘ってもらえたのも嬉しかったですし、転職しました。
そこから僕のIT界隈人生が始まって、当時まだまだ非常に黎明期のガラケー向けの広告事業ですね。そこで営業、クライアントをゲットしてきて仕入れて売るっていう広告代理業をやりました。これを2年ぐらいやっていました。
代理店業務への根本的な疑問
そこでの仕事もやっぱり大きな疑問を抱えざるを得ないような仕事の内容というか状況だったので、一旦辞めて、ちょうど実家で父親ががんが発覚したから帰ってきて手伝ってくれというオファーもあったんで(そのがんは悪性ではなくて未だに元気ですけど)、一旦東京の事業も嫌だなと思って帰りました。
実家での仕事というのは事業としては非常に面白いものだったんですけど、やっぱり家族経営の難しさみたいな、宿命的に難しい部分、それは家族であるから発生してしまう問題みたいなものにやはり辟易してきまして、また東京に戻りますということをしました。2年半ぐらいその事業は手伝わせてもらって東京に戻りました。
大企業での広告代理業務と価値創造への渇望
大手企業での代理店業務
またIT系のインターネット広告事業、その件の経験などについてはある程度その自信とか自負もあったので、インターネット広告系の会社、今度は大企業ですけど従業員数は1万人ぐらいいるような、サイバーエージェントとかではないんですが、もともとコールセンターの会社であったBPOの会社であって巨大化した会社がインターネット事業に参入して、当時業界4位5位を争っているみたいな会社だったんですけど、そこでまた広告代理事業をやるという仕事をしていました。
成績の方は大きな受注もありましたけど、まだまだ若すぎてなんかあんまり手応えはなかったんですけど、その仕事をし続けるときに**代理事業というのに辟易としてきた**んですよね。広告、特に広告代理ですからね。
運用型広告の黎明期での経験
当時やっぱりリスティング広告とか検索連動型広告ですね、検索結果に広告が出ますっていうやつの伸び盛りの時期で、それからアフィリエイト広告ですね。アフィリエイト広告はあんまり代理店が関与する余地があんまりないので微妙なところではあるんですけど、僕は現代で言う運用型広告の走りみたいな提案をして、大きいクライアント獲得したりとかしていたんで、ぼちぼちって感じでした。
ただし、やっぱり営業活動をする中で、それこそリスティングやアフィリエイトをどうやって売るんだって話で、その辺って別にカード決済とかで広告主が直接広告を出すことはできるんですよね。代理店の立場だとそこに対して何か商品を創造するみたいなアプローチができないと、売上を1億円上げたいので1億円分の在庫を作りましょうっていう行動って代理店はできないんですよね。
価格決定権への渇望
在庫を持っているのはあくまでそのGoogleであったりとかその他のメディア企業なんですよ。そこから仕入れられる枠を仕入れて売るっていう仕事なので、**価格決定権であったりとか販売ボリュームの決定権が全くない**んですよね、代理店には。あらゆる代理店に対してそれが言えるって訳じゃないと思うんで、商社っていう立場になると全然違うと思いますけど、当時のインターネット広告代理店にはっていうのはそういうもんだったんですよね。
そこにやっぱり辟易としてきて、むしろ**その枠を作る側に行きたい、ものづくり側に行きたい、何を作っていくらで売るのかを自分で決めて事業をやりたい**と強く思うようになってきて、当時まだ上場直前でしたけど、株式公開直前のコンテンツメーカー、コンテンツ制作会社、コンテンツ配信会社に転職したというような流れですね。
現在への想いと農業への価値観
自己決定権のある環境へ
それから今でもやはり**価格決定権とか誰にどういうものをいくらで売って利益を創出していくのかっていうのの自己決定権**みたいなのがある環境で働きたいって思いは非常に強くて、未だにやっております。ただ一方で現在はシステムの自社開発、デザインの制作なんかもしますけど、そういう自社制作、自社開発の文脈でしか存在が難しくなっているので、これをどこまで続けるものなのかなとは思っています。
会社を畳みたいみたいなものもないですし、今はその親会社があるので自分の意思決定でそういうことはできないですし、政治的な意味でも(政治っていうのはいわゆる社内、グループ内政治の意味でも)会社を縮小させるっていう方向の意思決定をするってのは全然ないので、やっていくしかないんですが、**自社制作会社っていうのもやっぱり存在意義をずっと問うことになります**よね。
受託制作業務への複雑な想い
うちがやらなければこの仕事は他社がやるんだよなと思いながらやるのって性に合わないんですね。多分それに疑問を持たない人もたくさんいると思うので、この事業モデル自体全てを否定する、間違っているっていうつもりは全然ないですけど、なんか性に合わないですよね。
なのでやるべきことは真面目にやりますけれども、**今や農業の方がマインドシェアが高い**って感じですね。そんな感じで東京に帰ってきて仕事をしていますが、またどうやら旅に出てしまいそうなはにまさんですよ。こんな人間ですよという話ですね。
農業を通じて、自分で作ったものを自分で価格を決めて売るという、まさに僕が長年求めてきた価値創造の形を実現できているのかもしれません。まだまだ売上は1620円と小さいですが、この経験は僕にとって非常に価値のあるものになっていますよね。
※この記事はポッドキャスト音声データを元にClaudeが書き起こし、編集したものです。
